飼い犬の死を通して想うこと
私が意として飼うことになったわけではないが、この子は13年前から私の飼い犬として人生を迎え、土曜日の午前中お世話をしてくれていた母の看取る中で息を引き取った。私の人生によって、様々な局面を余儀なくされた、この子は、ほぼ自分で選択の出来ない私との関係ができて幸せだっただろうか。大人になって初めて人間に近い、身近な生き物の死に遭遇したことで改めて思った。
もう一匹先に飼われている15歳の子もまだいる。あとから我が家に来たこの子が先に逝った。犬にも性格がある。この子は、自分のおもむくままに「ご飯、ご飯!」「それ私もほしい!」という子だったが、人懐っこく寝るときは股の間によく入ってきて寝ていた。女の子ながら片足あげておしっこしていた。
呼吸ができなくなり逝ったと聞いた。最期には立ち会えなかった。
私は人間の子を授かり、二匹の犬の世話を両親にお願いしたまま。母は、父の世話に自分の趣味、会社の仕事に加えて犬の世話までしてもらっていた。
犬にも精神的な成長「飼われた人間の生活環境に適応させる」ということがあるが、私たち人間は、意図して自分で自分を成長させることができる。成長できるにもかかわらず、成長しようという意志すら持たず、流されて人生を送るケースが多い。せっかく、人間として生を受けたなら、自分を律し、自分を成長させることを選ぶ自分でありたいものだ。成長には我慢と忍耐が必要になる。内容によっては苦痛も伴う。強い意志が必要だ。今までの24時間の使い方を変えないといけない。寝る時間を割くのか、起きる時間を割くのか、ビール一杯をやめるのかなど今までとは変わらないといけない。
この子の中にいた魂:真我:心は次はどこに行くのだろう。楽しい13年間をありがとう。