被災から3年・・・奥州仙台へ
仙台、石巻を訪問した。
↑この土地で設備会社を営んでいた方が自分の土地に設置したとのこと。
「これ以上何をがんばれというのか」、「何もできないから撤去しろ」等の心無い声も上がったようです。
石巻の語り部さんから聞いた経験者でしか語れない内容。
・役所・行政・ボランティアは個人は助けても会社・企業は助けない という痛切な叫び
・「自分の家だけは早急に対処してほしい」という声が多く(お客さま、知り合い等)頭の痛い連絡
・避難集会所への食事支給はあるが、自宅待機者は全くない(家族5人に、飴玉3つとパン1個をようやくもらった)
・食料がないため、配布されたおにぎりの海苔をはがし、かき集めたコンロ等で溶かしてしょうゆを混ぜて
海苔の佃煮にして量を増やした。
・復旧業務をしているときは、人や人の家を助けることはできても、自分の家や家族はそっちのけにしないといけない
・会社のカラーコピー機は、会社中央にあるケースが多く、固定していないためにひどく暴れて脅威である
・がれきや壁、流れてくるものは、人の体も切り刻み、手だけ足だけ顔だけなどで流れている物が多くあった
・代表者及び役員が被災して全滅した場合の会社の復活はどうする?
・お客さんが全滅して、会社が残った場合はどうする?
・上記の反対で、会社・資産がなくなり、お客さんが残った場合はどうする?
・情報基地は、300Km以上離れたところに置くと電話の混乱も何も起こらない
・電話は×。メールはOK(いつつくかわからないので、文中に何時何分に書いたメールなのかを明記する)
・外出時の行先は明確に記す(被災時どこを探せばいいかわからない)
・履歴書に家族欄を入れる。(被災して「万が一の場合」の連絡先が不明である)
↑道路がかさ上げされる計画(写真のボーダー位置)
昔、家があったこの地域には民家は建てられません。土地の所有や区画、移転先などで多くの課題が想像できます。