社長のビジネスブログ

組織・集団の中の「私」

私は「私」。でも、組織・集団の中にある私は「私」ではなく「組織・集団にいる私」。「素行が人として正しく、いつでもどこでも同じように考え、公正に分け隔てなく振舞い、発言できる人」ならばこの話は全く意味のない別の話。

本来はいつでもどこでも「私」は同じであるべきだが、【一人・個人の場合の「私」】と【二人以上の集団・組織に所属する場合の「私」】は違う。以下に分けて考えてみた。

①【一人・個人の「私」】

自分の考えに沿って時間を使い、言いたい、やりたい、自分の本能が発する欲を満たすために活動・休息すればいい

②【家族・家庭の中の「私」】

パートナーとの共有する時間・空間・物、家族の成長のためにやるべきこと(「したい、やりたい」ではなく「するべき、やるべき」)言うべきことをしなければならない。パートナーや家庭での約束事や決まりを守らなければ、時間・空間・物や成長、楽しみや悲しみを共有することはできない。 そのルールや決まりで、一人の時のような「自分の本能を満たすため」だけの「考え方」は許されず、常に時間・空間・物などが共有される。比較的わかりあった中、「血縁」という他にはない結びつきの中での「約束事や決まり」。自分が「首長」または「共同者」であれば自分の考えや主張がある程度はまかり通り、ある程度の「したい、やりたい、言いたい」という欲求は叶えることができる。

・パートナーが疲れている様子外食しようと誘った。「その時間は忙しいからいけない」「その分の小遣い頂戴!」「別にそんなことしなくてもいい」=「行きたくない」

家族の中での折角の配慮をこのように言われたら、言われた方は「ショック」を越して怒るかも。でもこの集団内ならある程度「他の意を排して自己欲求の実現」は叶う。まだよい。

③【集団の中の「私」】(地域集会・学校・会社・趣味クラブやチーム)

【一人の時の私、家族・家庭の中の私】のままその中に存在すると軋轢やクラッシュが起こる。集団には、校長、会長、社長、支配人、オーナー、監督、支配人、キャプテンや主将などその組織の運営の責任を持っている方がいる。組織を運営する長は「安定・成長・存続・勝利・評価・金」などの「責任」が伴い、社会やほかの集団にさらされる。「2人以上の人が、共に同じ目的を達するために集まる」のが集団である。その中に集う人は、示された目的、目的に達するために様々な対策に合わせて「共に行動する」ことが求められる。「共に行動する」ことが耐え難い場合は、自分で別の集団をつくればいい。その集団のなかで「別集団」をつくることは、どのような集団の規律でも「許される考え・行動」ではない。以下のような場面で、以下のような行動をする個人が、扇動して複数になることをしたらどうなる?

・校長から任命を受けた先生が、時間割という規律に沿ってクラスで国語の授業をする。「眠たいから寝る」「国語は嫌い、算数をする」「持ってきたお菓子を食べる」

・所属する自治会長が台風後の近隣・公園清掃をしようと決め皆に連絡・依頼する。「自宅優先だから参加しない」「近所は汚れてないからしない」「ほうきがないからできない」

・少年団の長が練習時間に地域活動に参加するように指示した。「練習のために集まっているから参加しない」「〇氏が行けないから私も行かない」「その日に法事がある」

・クラブ長がいつもの練習時間に奉仕活動を決めた。「その活動は賛同できないからしない」「その日は忙しいから行けない」「他のことに時間をかけたいから時間を取れない」

どうですか?書いてて嫌になってきました。「できない、やらない」の理由をつけて「したくない・やりたくない」の【個人の私】が前面に出てません?理由になってます?これで関係が保てますか?これでその集団に居続けますか?これ自分の家族や子供がやっていたらどう思いますか?まさか、自分はこういうことをしているのに、家族や他人にだけ「そんなことはだめだ」なんて言ってませんか?

緊張感のない私を優先しすぎている【私】が我が物顔で出ている中では「共に行動する」ことができない。「扇動」なんてことがあれば「決まりにのっとってお仕置き(厳罰)」だ。

所属する首長の話を聞く、反応する、発言する、行動するときには、「組織の中の【私】」で考え、振舞うことを忘れては困る。「共に行動する」のだ。

「できない、やらない理由をいう【個人の私】」を【集団・組織の私】がしっかり押さえこんで「できる・やる」理由を考える。さもなくばその集団から抜ける。