インドのタゴールという詩人の詩
そんなつもりはないですが、内容が多少宗教じみている感があるので、ご高覧の際はご留意を。
私は、傾倒してはいませんが、何となくわかる気がします。
判断の際に、「きつい・きつくない」、「安い・高い」、「得・損」、「手間・手間がない」、「楽しい・楽しくない」、
「近い・遠い」等、自分の理性ではなく、欲求ままに判断することがないですか?
人間の心の中には邪まで貪欲な利己的な自分と、美しい慈しみの心、優しい思いやりの心を持った自分がいる。
つまり「卑しい自分」と「清く正しい自分」が同居しています。
スターウォーズの世界感もこんな感じがありますよね。「ダークサイドによっていく・・・」とか。
毎日、日々の生活は、注意することなく行っている行動や言動の積み重ねですが、実は、無意識にこのことが
判断され(意識されることもなく)行われている気がします。
ここからがその詩です。
「私はただ一人、あなたのもとにやってきました。しかし、そこにはもう一人の私がいました。この暗闇にいる私は
誰なのでしょう。その人を避けようとして私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。彼は大道を
練り歩きながら地面から砂埃を巻き上げ、私がつつましやかに囁いたことを大声で復唱します。彼は私の中にいる卑小なる
我つまりエゴなのです。彼は恥を知りません。しかし、私自身は恥じ入ります。このような卑しく小さな我を伴って、
あなたの扉の前に来ることを・・・」
私が慎ましやかに、「あれがほしいなぁ~と囁いたことを、あれがほしい、あれを俺によこせ」と、大声で怒鳴ります。
慎ましやかに、歩いていても、彼は「肩をいからして、大道を闊歩して歩いて」きます。
するべきではないのに、「やろうよ、やってしまえ~、誰も見てないよ」といいます。
もう一人の自分である彼は、恥を知りません。私は彼と一緒にいることを恥じ入ります。このような卑小なる私、
つまり心がきれいになっていない私があなたの前に来たことをお許しください。
判断をするときなど、自分の方向からしか見えず、自分のことだけを考え、それに理由を加えて正当化していく
自分がいますよね。皆、自分がかわいいですから仕方のないことです。生きていくためには、卑しい(自己欲求の達成)
自分も必要で消すわけにはいきません。
「知足」という考え方も大切ですね。