「より強く思う」
サッカー国際親善試合でベネズエラと対戦し完敗したチームの司令塔 柴崎 岳氏のコメント。
修正に対するその辺の責任はすべて「僕」にある。
声掛けはしていた。1失点目から相手とディフェンスの距離が開いているというのがあった。
その段階で指摘や声掛けをしていたが、無意識のうちに自分たちが意識していないうちにズルズルと下がった守備をしてしまっていたと思う。いくら意識していても、無意識は見えないところからやってくるので、より強く思わないと。
そこをやるのはチームがいくら声をかけても(実行するのは)個人なので、差はある。難しいところ。
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→ よく聞こえてくる自分の呼称が「自分」ではなく「僕」と話している。より謙虚に聞こえる。
プロ選手がよく自分の呼称を「自分」と言う様子をテレビで聞くようになってから、自分の呼称を「自分」という方もいる。悪くはないが接客やビジネスの場では、ふさわしくないし正しくもない。学童時に習ったのは「ぼく、わたく、わたくし」だったはずである。せめて「僕」場によっては「私」である。「自分」といういい方は、そのニュアンスや受け取り方を「傲慢と謙虚の天秤」に乗せた場合、謙虚のほうには傾かないと思う。
→ 「意識していても( ≒ 観念的にわかっている状態)無意識がやってくるのでより強く思う」
そうとわかっていても「いつもの自分、いつものやり方、いつもの行動」(自分にとってより普通で体や意識に負担のない)行動や口が表に出る。それを抑えるのは「いつもの思いを超える『より強い意識』」。そのたびに振り返り、反省するればいい。
→ いくら声をかけても個人なので
声をかけても指摘しても最後に行動するのは「個人」。声掛けや指摘をどう考えてくれるか。ダメなら諦められるか「期待」というはしごを外される。意識を高く持って、新しく始めたらやり続ける。がんばれ。
この文章も見た、聞いた人が「意識する」だけで終わるか「強く思う」かでその人の結果は変わる。