調所笑左衛門広郷
500万両の借金を無利子で250年の分割払いへ
調所 笑左衛門広郷
(ずしょ しょうざえもん ひろさと)
江戸時代後期の薩摩藩の家老
写真は、苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)
調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域ではその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて祀られている。
幕末に近い文政10年(1827年)薩摩藩の借金は、5百万両の巨額に達していた。
当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。
時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。
広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ50万両の蓄えさえ残した。
① 商人を脅して借金の証文を焼却
② 商人を脅して250年無利子ローンへ変更(2085年までに及ぶ分割払い)
③ 琉球を通じて清と密貿易を行う
④ 奄美大島、徳之島などから取れる砂糖を専売制とした(農民を大変苦しめた)
⑤ 偽金を作った
更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。
広く県民に親しまれた西田橋など甲突川五石橋も、天保山の造成も、すべて調所の発案である。
だが歴史は時の為政者によって作られる。
島津斉興と島津斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。
幕末の名君、島津斉彬の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからである。
解説
●当時の薩摩藩の借金は、年間利息だけで年80万両を超えていた。
これは薩摩藩の年収(12万から14万両)を超えており破産状態に陥っていた。
●無利子250年払いであるが、明治5年(1872年)までの35年間は律儀に返済されており、密貿易品を扱わせ利益を上げさせるといった代替措置も行っていた。
●薩摩藩の財政は、実際には250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
●苗代川地区(日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられている。
●名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられている。