社員ブログ

平野次郎国臣


我胸の
燃ゆる思いにくらぶれば
煙はうすし櫻島山

島津久光に会えず失意のもと、鹿児島を去るとき
伊集院から桜島を振り返り詠んだ歌なんだそうです。
下の写真は伊集院にある歌碑です。

IMG_6534


幕末の攘夷派志士
平野次郎国臣

IMG_6533

(ウィキペデアより抜粋)
福岡藩出身
攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。

国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い公家への運動を担当することになった。
国臣の志士活動のはじまりである。
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となった勤王僧・月照を薩摩へ逃す。
しかし薩摩藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、日向国への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。
安政5年11月16日(1858年12月20日)西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は(享年46)水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣(当時数えの31歳 西郷と同じ歳)は追放され筑前へ帰った。

安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外の変が起こり、井伊直弼は水戸藩士と薩摩藩士によって暗殺された。
福岡藩庁は驚愕し、事前に井伊暗殺を知っていた国臣の捕縛を命じた。

村田新八・有馬新七らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父・島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。
失望した国臣は
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。

肥後の松村家に戻った国臣は後に「人斬り彦斎」の異名を持つ河上彦斎と交流している。

元治元年(1864年)7月、京都所司代配下の役人により処刑。斬首された。

享年37。

明治24年(1891年)、正四位を贈られた。

(人斬り彦斎=人斬り抜刀斎のモデルとなった人物)